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東京地方裁判所 平成7年(行ウ)255号 判決 1998年4月23日

原告

甲野花子

右訴訟代理人弁護士

大森康子

釜井英法

坂本隆浩

田辺幸雄

被告

足立労働基準監督署長高橋武己

右訴訟代理人弁護士

高田敏明

右指定代理人

加島康宏

清宮克美

佐野節夫

横峰朝夫

竹内昭夫

主文

一  原告の請求を棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実及び理由

第一請求

被告が原告に対して平成六年九月二六日付けでした労働者災害補償保険法(以下「労災保険法」という。)に基づく遺族補償及び葬祭料を支給しない旨の処分(以下「本件処分」という。)を取り消す。

第二事案の概要

本件は、タクシー乗務員として勤務していた甲野太郎(以下「太郎」という。)が平成三年一二月二三日(以下、特に断らない限り平成三年を指す。)、乗務中に急性心筋梗塞を発症して(以下「本件発症」という。)死亡したのは、業務に起因するものであるとして、同人の妻である原告が、労災保険法に基づき、被告に遺族補償及び葬祭料の支給を請求したが、本件処分がなされたため、その取消しを求めている事案である。

一  前提となる事実

以下の事実は、当事者間に争いがないか、又は、末尾に掲げた証拠及び弁論の全趣旨によって認めることができる。

1  太郎(昭和一六年六月一日生)は、昭和五九年三月に日の丸自動車株式会社(以下「会社」という。)に入社し、東京都足立区所在の同社足立営業所においてタクシー乗務員として勤務していた。

2  太郎の勤務形態は、出番(乗務日)→明番(非乗務日)→出番→明番→公休の五日間を周期とし、乗務日の所定拘束時間は、午前六時三〇分出勤、七時出庫、翌日午前一時帰庫、一時三〇分終業の一九時間(うち三時間が休憩時間)とされていた。

3  本件発症前三か月間(九月二三日から一二月二二日までの間)、太郎は特段の支障なく業務を遂行していた。右の期間中の太郎の勤務状況、一乗務日当たりの拘束時間及び乗務日と次の乗務日の間の休息期間は、概ね別紙1<略>記載のとおりである。

「自動車運転者の労働時間等の改善のための基準」(平成元年労働省告示第七号)(以下「改善基準」という。)によれば、一般乗用旅客自動車運送事業に従事する自動車運転者であって、隔日勤務に就く者の拘束時間は、二暦日について二一時間、一か月について二七〇時間を超えないものとされているところ、本件発症前三か月間における太郎の一乗務当たりの平均拘束時間は約二一時間二四分であり、一か月当たりの平均拘束時間は約二二八時間二〇分であった(<証拠略>)。

4  太郎は、本件発症前二か月間に三回(一〇月二六日、一二月一三日、同月二〇日)交通事故に遭ったが、いずれも相手方の車に追突されたものであり、車両の破損は軽微であったため、事故直後に会社に電話連絡をした後、そのまま営業運転を続け、帰庫後、当直の従業員に事故報告書を提出して帰宅した。事故の相手方との交渉は、いずれも会社が行っており、太郎が直接交渉することはなかった。また、これらの事故について、会社は太郎に対して何ら制裁を科していない。事故後、太郎の営業収入が落ち込んだということもなかった(<証拠略>)。

5  太郎は、一二月二一日(明番)、翌二二日(公休)の二日間は勤務をせず、同月二三日は、いつものとおり自転車で家を出て、午前五時一五分ころ出社した。出社後、太郎は、同僚の乗務員に身体の調子が悪いとこぼしながら、胸や腹をさすっていたが、午前五時五〇分ころ出庫し、午前六時五〇分ころまでの間に二回乗客を乗せて運転した。その間、胸痛があり何度か嘔吐したため、午前七時三〇分ころタクシーを運転して東京都台東区所在の東京自動車連合健康保険組合柳橋病院(以下「柳橋病院」という。)に行き、受診したところ、急性心筋梗塞と診断された。柳橋病院では、太郎をCCU(虚血性心疾患の集中治療施設)のある聖路加国際病院に搬送することにして救急車に乗せたが、心停止となったため、心肺蘇生術を施しつつ、より近距離にある日本医科大学付属病院救命救急センターに搬送した。そして、同センターでも心肺蘇生術が施されたが、午前九時一二分、急性心筋梗塞による死亡が確認された。

当日の台東区の気温(単位は摂氏。以下同じ。)は、午前五時が六・八度、午前六時が六・三度、午前七時が五・九度、東京都管区気象台における気温及び風速(単位は秒速)は、午前五時が五・三度で二メートル、午前六時が六度で一・五メートル、午前七時が五・七度で一・二メートルであり、天気は晴れであった(<証拠略>)。

6  心筋梗塞の発症には、従来から三大リスクファクターと呼ばれている高血圧、喫煙及び高コレステロール血症に加え、性(男性であること)、加齢、運動不足、ストレスなど多数の因子が関与しているところ、太郎は、昭和六二年九月から高血圧症の治療を受けており、毎日二〇本程度のたばこを吸っていた。太郎の血圧測定値の推移は、概ね別紙2<略>記載のとおりである。太郎は、医師の処方した降圧剤を服用していたが、本件発症前一年間は概ね毎月二回、一回につき一四日分の投薬を受けていたが、本件発症前は、一一月二五日に一四日分の投薬を受けたのが最後であり、一二月には一度も投薬を受けていない。また、本件発症前六か月間に太郎が医師に受診したのは、六月二五日と一〇月四日の二回だけであった(<証拠略>)。

7  原告は、太郎の死亡は業務に起因するものであるとして、労災保険法に基づき、被告に対し、遺族補償及び葬祭料の支給を請求したが、被告は、平成六年九月二六日、本件処分をした。原告は、これを不服として、同年一一月一一日、東京労働者災害補償保険審査官に審査請求をしたが、審査請求があった日から三か月を経過しても裁決がないため、行政事件訴訟法八条二項一号に基づき、平成七年九月二〇日、本件訴えを提起した。

二  主たる争点

太郎の死亡は業務に起因するものかどうか。

三  当事者の主張

1  原告

(一) 業務起因性の判断方法

労災補償制度の補償対象である「業務上」の災害とは、業務と相当因果関係のある災害を意味する。業務と疾病との間に相当因果関係があるというためには、業務と疾病との間に条件関係があるだけでは足りないが、業務の他に複数の原因がある場合、業務がその複数の原因の中で最も有力な原因であることまでは要せず、他の原因と共働原因となって発症したときは、相当因果関係が肯定される。そして、業務と関連性を有しない基礎疾患等が原因となって発症した場合であっても、被災者の従事した業務内容が基礎疾患等に悪影響を与える性質のもので、その業務に従事した期間が相当期間にわたる場合は、基礎疾患等が自然的経過によって増悪して発症したなどの特別の事情のない限り、業務が基礎疾患等と共働原因となって発症したと推認し、業務と疾病との間に相当因果関係を認めるべきである。そして、相当因果関係としては、法的因果関係があれば足り、発症の機序等についての医学的因果関係までは必要でないと解するのが相当である。また、業務が過重であったか否かの判断は、当該被災労働者自身を基準にするのが相当である。

(二) 太郎の業務の過重性

(1) 業務内容から見た業務の過重性

隔日勤務のタクシー運転業務は、それ自体高度の緊張を強いられる自動車の運転を業務とするものであり、賃金の多寡が売上げ額によって左右されること、行く先が乗客の指示次第であり、接客に細かな注意を払わなければならないこと、乗客になるかもしれない歩道上の人の動向にも注意しなければならないことなど、精神的ストレスが多いうえ、深夜勤務を含む不規則な長時間労働を伴う。精神的ストレスは、虚血性心疾患の重要なリスクファクターであり、深夜勤務を含む長時間労働は、動脈硬化に悪影響を及ぼすとともに、自律神経のリズムを乱し、疲労を蓄積させるから、これらを全て含む隔日勤務のタクシー運転業務は、虚血性心疾患を発症する危険性の高い業務であるといえる。したがって、平均的な隔日勤務のタクシー乗務員が虚血性心疾患を発症した場合には、特段の個人的な事情のない限り、業務と発症との間に相当因果関係を認めるべきである。

(2) 労働時間から見た業務の過重性

太郎の一乗務当たりの平均拘束時間は、本件発症前三か月間(九月一六日から一二月一六日までの間)連続して改善基準を超えているが、このような恒常的な改善基準違反の長時間労働は、太郎の健康ひいては生命維持を脅かし、心筋梗塞という健康障害を引き起こす具体的危険を有するものであった。

(3) 太郎独自の業務の過重負荷

太郎は、「つけ待ち」に比べて肉体的、精神的により厳しい「流し」を中心とした営業をしていた。また、太郎は、車の中では眠れない性分のため、休息の際も仮眠を取っていなかった。加えて、太郎は、本件発症前二か月間に三回も事故に遭遇し(うち二回は本件発症前一〇日間に遭遇したものである。)、過重な精神的ストレスを受けていた。

(三) 本件発症が業務に起因するものであることについて

業務によるストレスが心筋梗塞等、虚血性心疾患発症の原因となること、長期にわたる肉体的・精神的ストレス、疲労の蓄積及び過労が血管病変の形成・増悪に大きな影響を及ぼすことは、医学的に認められている。太郎は、深夜を含む長時間のタクシー運転業務による過労と事故に伴う精神的ストレスが重なって疲弊状態に陥った結果、本件発症に至り、死亡したものである。

太郎の血圧は、降圧剤服用により良好に管理されていた。また、太郎の喫煙本数は、四、五〇歳代の喫煙習慣を有する日本人男性の平均(一日約二五本)を下回っている。そして、心筋梗塞は複数の要因が複雑に絡み合って発生する疾病であることを考え合わせるならば、高血圧及び喫煙が原因で本件発症に至ったということはできない。

仮に、高血圧及び喫煙が本件発症に部分的に関与していたとしても、長期にわたる肉体的・精神的ストレス、疲労の蓄積及び過労は、高血圧を悪化させ、喫煙習慣を維持させる要因となることは医学的にも明白である。

(四) 救命が遅れたことが業務に起因するものであることについて

太郎は、本件発症後も一時間近く我慢をして乗務を続け、そのうえ救急車ではなくタクシーを自ら運転して病院に行かざるを得なかった。というのも、被告の就業規則によれば乗車拒否は懲戒解雇事由であり、車両放置は譴責、減給等の処分事由であるうえ、違法駐車は刑事処分や行政処分の対象となるため、タクシー乗務員は乗車拒否や車両放置ができないからである。もし太郎が本件発症後、絶対安静を守り、直ちに救急車でCCUのある病院に搬送されていれば、太郎は命を取り留めたはずであるから、太郎の死亡は、タクシー運転業務に内在する危険、すなわち、業務に従事中に心筋梗塞が発症した場合、直ちに適切な治療を受けることを阻む危険が現実化したものというべきである。

2  被告

(一) 業務起因性の判断方法

業務起因性を認めるためには、業務と疾病との間に相当因果関係が必要であり、その前提として業務と疾病との間に条件関係が認められる必要がある。

ところで、虚血性心疾患は、業務がなくても、加齢、日常生活等において生体が受ける通常の要因により、発症の基礎となる素因又は動脈硬化等による血管病変や動脈瘤等の基礎的病態(以下「血管病変等」という。)が進行・増悪して発症するものであるから、業務と虚血性心疾患の発症との間に条件関係があるというためには、業務による負荷が過重負荷と認められる態様のものであること、すなわち、業務が虚血性心疾患の発症の基礎となる冠動脈の硬化・管腔狭窄病変等をその自然的経過を超えて急激に著しく増悪させ得るものであることが必要である。業務起因性の有無は、業務による負荷が右でいう過重負荷に当たるかどうかによって判断することになる。そして、業務による精神的、身体的負荷によって急激な血圧変動や血管収縮が引き起こされ、血管病変等がその自然的経過を超えて急激に著しく増悪し、虚血性心疾患が発症するに至った場合にのみ、その発症について業務が相対的に有力であると判断され、業務起因性が認められるのである。したがって、業務の過重性は、「どのような負荷があれば、虚血性心疾患の発症の基礎となる血管病変等をその自然的経過を超えて急激に増悪させ得るか」に関する医学的な経験則を前提として判断しなければならず、単に業務が常識的にみて過重であればよいというものではない。そして、業務の諸要因による精神的、身体的負荷が虚血性心疾患の発症に最も密接に関連しうるのは発症直前から前日までの二四時間以内のものであり、それから時間的経過を経るに従いその関連は低下し、発症前一週間より前の業務は、通常、急激で著しい増悪に関連したとは判断し難いというのが医学的経験則である。

(二) 本件災害が業務に起因するものでないこと

本件発症前一週間の太郎の勤務状況は通常どおりのものであり、本件発症前六か月間についてみても、同僚の出勤状況、営業収入、走行距離等と比較して、太郎の業務が特に過重であったとは認められない。

原告は、太郎が長時間労働に従事したと主張するが、一乗務当たりの平均拘束時間で見れば、改善基準を超えている時間は一時間にも満たず、一か月当たりの拘束時間で見れば、改善基準を超えていない。また、太郎の乗務が深夜に及ぶことがあるとしても、乗務日と次の乗務日との間には相当の休息期間がある。特に、発症当日である一二月二三日に出社するまでには、同月二一日の午前三時五〇分に退社した後四九時間三〇分の休息期間があり、労働密度が高かったとはいえない。また、本件発症の二日前及び一〇日前の事故は、それほど強烈な精神的ストレスになったとはいえない。むしろ、本件発症は、加齢等に加えて、太郎の喫煙や不適切な高血圧治療等、健康管理が不十分であったことによる冠動脈病変の進行・増悪が原因となって発症したものというべきであり、業務に起因するものではない。

原告は、太郎が死亡したのは、本件発症後も一時間近く我慢をして乗務を続け、救急車ではなくタクシーを自ら運転して病院に行かざるを得なかったことによる旨主張するが、タクシー乗務員の場合、体調異変が自覚された場合にまで業務を継続しなければならないという必要性はない。

第三争点に対する判断

一  「業務上」の意義について

労災保険法に基づく保険給付は、労働者の「業務上」の災害(負傷、疾病、障害又は死亡をいう。以下同じ。)について行われるものであり(七条一項一号、一二条の八、遺族補償につき一六条等、葬祭料につき一七条)、労働者が「業務上」死亡したといえるためには、業務と死亡との間に相当因果関係のあることが必要である(最高裁判所第二小法廷昭和五一年一一月一二日判決・裁集民一一九号一八九頁、判時八三七号三四頁参照)。そして、労災保険制度は、業務に内在又は随伴する危険が現実化した場合に、それによって労働者に発生した損失を補償するものであることに照らせば、業務と災害との間に相当因果関係が認められるかどうかは、経験則及び医学的知見に照らし、業務がその災害発生の危険を内在又は随伴しており、その危険が現実化したということができるか否かによって判断すべきものと解される。もっとも、心筋梗塞のような虚血性心疾患の発症は、被災者に血管病変等が存し、それが何らかの原因によって破綻して発症に至るのが通常であると考えられているから、業務が虚血性心疾患を発症する危険を内在又は随伴していると認められるためには、単に業務がその虚血性心疾患の発症の原因となったというだけでは足りず、業務による負荷が血管病変等をその自然的経過を超えて急激に著しく増悪させ得る態様のものであることが必要である。

以下、このような見地から、太郎の死亡が業務に起因するものといえるかどうかについて検討する。

二  太郎の死亡と業務の関連性について

1  本件発症前の太郎の業務の内容については、前記前提となる事実2から5までによれば、本件発症前三か月間、太郎は特段の支障もなく業務を遂行していたこと、その間の勤務の状況は、一乗務日当たりの平均拘束時間が改善基準を若干超えてはいるものの、一か月当たりの平均拘束時間は改善基準をかなり下回っており、乗務日と次の乗務日との間に相当な休息期間があるなど、肉体的、精神的に過重労働と認め得るようなものはなく、本件発症前一週間の業務内容も平常の運転業務の域を出るものではなかったこと、太郎は、本件発症前二か月間に三回(うち二回は、本件発症前一〇日間)交通事故に遭ったが、いずれも相手方の車に追突された軽微な物損事故であり、相手方との交渉は会社が行い、会社から制裁を受けたようなことはなく、事故後営業収入が落ち込んだこともなかったこと、本件発症当日は明番及び公休により五〇時間近くの休息期間を取った後であり、その業務も二回乗客を乗せて運転しただけで特に負担となるようなものではなかったことが認められる。

2  他方、太郎(本件発症当時五〇歳)の健康状態については、前記前提となる事実6によれば、太郎は、本件発症の約四年前から高血圧症の治療を行っていたが、血圧測定値の推移は概ね別紙2<略>記載のとおりであるところ、本件発症前六か月間に二回しか医師に受診していないうえ、一一月二五日に一四日分の降圧剤を受領して以後降圧剤を受領していないことからみて、本件発症前一〇日余りの間は定期に降圧剤を服用していなかったのではないかと推測される。そして、(証拠略)によれば、東日本旅客鉄道株式会社中央保険(ママ)管理所循環器科部長西本良博医師(以下「西本医師」という。)の意見は、「太郎の場合、初診時の拡張期血圧一二〇は、各種の重症度分類でも重症の部類に属するものである。また、高血圧患者は、少なくとも月に一、二回の受診が基本となっており、人命を預かる運転業務に従事する者の場合は、さらに頻回の受診が望ましいことを考慮すると、太郎の高血圧の治療状況は適切であったとはいい難く、高血圧による心筋梗塞発症の危険はある程度高かったと推定される。」というのであり、また、中部労災病院健康診断センター所長服部健蔵医師(以下「服部健蔵医師」という。)の意見は、「本件発症前六か月間における太郎の医師への受診回数、降圧剤(アダラート)の投薬状況からして服用状況が良くないと推測されること、高血圧患者がアダラートを中断した場合強い反跳現象が生じる危険があることからすると、太郎の高血圧の治療状況が適切であったとはいえない。」というのであり、これら医師の意見に照らしても、太郎がその高血圧症について適切に治療を受けていたとは到底いえない。

3  ところで、(証拠・人証略)によれば、社団法人石川勤労者医療協会城北病院副院長服部真医師(以下「服部真医師」という。)の意見は、「太郎の高血圧は、その持続期間があまり長くなく、治療により適切に管理されており、重症度も軽症に分類される状態であった。もっとも、タクシーの運転中は、血圧測定時以上の高血圧状態にあり、突発的な血圧上昇にも頻回見舞われていたと推定できる。長期にわたり深夜に及ぶ長時間のタクシー運転業務に従事したことにより、太郎は、慢性的な過労状態や生理的リズムが乱れた状態に陥っており、これが運転中の血圧上昇と相まって、血圧測定値や喫煙習慣から推定される以上の動脈硬化をもたらしたと考えられる。本件発症の一〇日前と二日前に遭遇した事故による精神的、肉体的ストレスは、太郎の過労状態や自律神経・ホルモンの乱れを一層助長したと考えられる。本件発症は、このような状態から回復しないうちに、事故再発の不安や事故のために減少した営業収入を回復しなければという心理的に緊張した状態で、冠動脈攣縮や血栓形成の起きやすい早朝から勤務を開始したことに起因している。また、本件発症後約一時間も我慢をして、しかも救急車を呼ぶことなくタクシーを運転して病院まで行ったことは、心筋梗塞を悪化させ、致死的な心室細動を起きやすくしたと考えられる。」というものである。

しかしながら、服部真医師の右意見は、まず、太郎の高血圧症が治療により適切に管理されていたとする点で、前記認定事実に基づく判断とは異なっており、にわかに賛同しがたい。また、太郎は長期にわたり深夜に及ぶ長時間のタクシー運転業務により、慢性的な過労状態や生理的リズムが乱れた状態に陥っており、これが運転中の血圧上昇と相まって動脈硬化をもたらしたとする点は、先に判示したとおり、本件発症前の太郎の業務内容について平均的なタクシー運転手の勤務状況と比較して過重なものであったと認めるに足りる証拠はないうえ、「医学上、高血圧治療中の五〇歳の男性がある朝突然に心筋梗塞を発症して三時間後に急死するということは、業務中であったか否かや、過度の業務によるストレスの有無にかかわらず、普通に起こり得ることである。太郎は、喫煙、性及び年齢というリスクファクターを有していたのであるから、業務やそれによるストレスがなくても、心筋梗塞発症の危険性は低いものではなかった。」との西本医師の意見(<証拠略>)及び「ストレスは高血圧や動脈硬化の発生因子として重要な役割を果たしている。しかし、ストレスによって発生する高血圧症は一過性であり、持続性の本態性高血圧症は、ストレスによっては発症しない。太郎の場合、本件発症直前に強い感情的興奮を生じたかどうかが問題となるが、発症当日は何ら予期せぬ出来事はなかったのであるから、強い感情的興奮が原因で心筋梗塞を発症したとは考えられない。もっとも、自動車の運転という労働に比例した血圧上昇は当然あったと考えられ、また、過去の事故の経験が防御・警告反応となって血圧上昇を招いた可能性はあるが、問題となっている事故はいずれも、それほど強烈な精神的ダメージを伴うものであったとは考えられない。したがって、本件発症は、高血圧の自己管理が適切に行われなかったことと、早朝に自然に生じる血圧上昇や動脈壁の緊張度の高まりが原因となったものと推定される。」との服部健蔵医師の意見(<証拠略>)に照らして、直ちに採用しがたい。

4  以上のとおり、本件発症前の太郎の業務が過重であったとは認められないうえ、西本医師及び服部健蔵医師の各意見を踏まえて、太郎の健康状態に加えて、太郎が五〇歳の男性であること、毎日二〇本程度の喫煙習慣を有していたことをも併せ考慮すれば、太郎の死亡原因となった心筋梗塞は、業務による負荷が同人の有していた血管病変等をその自然的経過を超えて急激に増悪させた結果発症したものと認めることはできない。

また、原告は、太郎が死亡したのは、本件発症後も我慢をして乗務を続け、救急車ではなくタクシーを自ら運転して病院に行かざるを得なかったことによる旨主張するが、体調異変が自覚された場合にまでどうしても乗務を中断できなかったという事情を認めるに足りる証拠はないから、本件発症後も業務を継続しなければならない必要性があったとはいえず、右の主張は理由がない。

三  結論

そうすると、業務と本件発症との間に相当因果関係が認められず、太郎の死亡は業務に起因するものとはいえないから、これと同じ判断の上に立ってされた本件処分は適法である。

よって、原告の本件請求は理由がないからこれを棄却して、主文のとおり判決する。

(口頭弁論の終結の日 平成一〇年一月二九日)

(裁判長裁判官 萩尾保繁 裁判官 片田信宏 裁判官 西理香)

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